★三本脚の犬と少年★ 

――その1――

 賢一は、カレンダーの中の自分の誕生日〈四月二十八日〉に印をつけて、その日がやってくるのを毎日毎日首を長くして待っていました。
 その日は、両親からの誕生日プレゼントとして〈犬〉がやってくる予定でした。

 父は、犬があまり好きではなかったので、賢一の、犬を飼いたい、という願いを今までは聞きいれてくれなかったのです。でも、知り合いの家から、紀州犬の子供が七匹も産まれたので、一匹もらってくれませんか、と言う話しがあって、とうとう、父も一人っ子の賢一の願いを聞き入れて、誕生日のプレゼントとして犬をもらい受けることになったのです。

 賢一は、両親の前で万歳をし、飛び上がって喜びました。
 そして、はやばやと犬がやってくるまでに、〈万里(マリ)〉という名前を付けて待ちわびていたのです。 

 父は当日、朝から出かけて行きました。賢一も一緒に行きたかったのですが、学校があったので行けませんでした。
 父は、仕事であちこち回って、最後に知り合いの家に寄って、犬を引き取ってくるという予定になっていました。

 賢一は学校が終わると、すぐ家にとんで帰り、父の経営する工場で作ってもらった犬小屋を掃除したり、万里のために新しく買ってもらった首輪や、鎖、散歩用の革ひも、食器などを点検したりして、落ちつきませんでした。

 母は、「賢一、少し落ちつきなさいよ」と言いましたが、その母も、賢一の誕生日のごちそうづくりと、万里のための初めての食事を用意したりして落ちつかない状態だったのです。父が帰ってくると思われる頃には、賢一は門の前に立ちつくして待ち続けました。 

 そして、とうとう父が犬をつれて帰ってきたのです……。 
 賢一は父のワゴン車から出てきた子犬を見て、「うわぁー、かわいいー」と叫びました。
 その子犬、万里は小さくて、ほとんど純白の毛をしていて、尻尾をくるりと巻いて、ぬいぐるみの子犬が動き出したようなかわいい犬でした。

 雌犬(メスイヌ)のせいか、やさしそうな目をしているのですが、もともと猟犬としてのルーツを持つ紀州犬の万里は、雌とは言え、前傾した小さな耳、黒くて濡れた鼻先などが凛(リン)とした雰囲気を漂わせていました。

 賢一が、万里を車から降ろそうとすると、初めて見る賢一に少し怯えたように後ずさりしましたが、「よしよし、万里、僕がお前の飼い主なんだよ」と言いながら、頭を撫でてあげると、すぐおとなしくなって賢一に抱かれるのでした。 

 母の喜美恵も出てきて、「まあ、賢一、かわいい犬だねえ」と言って、万里に近寄りましたが、太っていて大きな声を出す母に恐さを感じたのか、万里は警戒して、最初はちょっと尻込みするのでした。

 工場長の松川さんや、ちょうど出先から帰ってきた運転手の深井さんも、みんなが万里を取り囲むように近寄りました。
 松川さんはプロレスラーのように身体が大きいし、深井さんは、父と同じようにやせっぽちで小柄なのですが、いつもサングラスをかけているので、二人とも恐そうに見えたのか、万里はその場にうずくまって、小さな身体を震わせながら、吠えました。

 賢一は、「よしよし、大丈夫だよ」と言いましたが、万里は、知らない人の中で、尻尾を下に向けて、賢一の足もとで少し震えていました。
「だめだよ、みんな、あんまり近寄らないで」と賢一は、思いきって、叫びました。 

 賢一は、自分のお小遣いで、「犬の飼い方」という本を買って、ひそかに勉強していたのですが、子犬を初めて飼った時は、あんまりいろんな人が、犬にかまったりすると、落ちつきのない悪い犬に育ってしまう、ということが書いてあったのです。

 ですから、賢一は、思わずみんなに叫んでしまったのです。でも、みんなはかわいい犬なので、かわりがわりに抱いたり、頭を撫でたりするのでした。 
 賢一は、万里が自分の家族と会社の人たちに馴れるまでは、自分が守ってあげなければと思ったのでした。

 その日の夜、親子三人で賢一の誕生日のごちそうを食べながら、話題は万里のことばかりでした。
 父は「賢一、お父さんは犬は苦手だったけど、でもこうやって飼ってみるとかわいいもんだなあ」と、上機嫌でした。 

 母は、「賢一、お父さんが許してくれたんだから、毎日の散歩と、犬小屋の掃除とをちゃんとやるんだよ。お母さんは、毎日、万里のご飯をつくったりするのに大変なんだから」と言いました。
「大丈夫だよ、約束するよ」と賢一は胸を張って答えました。 

 こうして、万里は、その日から、石井雄一、喜美恵、賢一の三人家族の中に新しく一員として加わり、また、同時に、同じ敷地の中にある、父が社長を務める工場の番犬にもなったのでした。
 

 ――その2――

 でも、まだ、番犬と言っても、生後二ヶ月ちょっとですから、無理だと思ったので、最初は門のそばではなく、自宅の縁側の外の、人目にあまりつかない場所で飼うことにしました。
 それでも、賢一の自宅と広場をはさんで向かい側が工場で同じ敷地内ですから、会社の女子社員たちや、松川さんや、深井さんたちも時々、顔を覗かせて、万里をかまいに来るのです。 

 賢一は、自分の愛犬をみんながかわいがってくれるのは嬉しかったけれども、同時に、心配でもありました。
 賢一は今まで犬を飼ったことがありませんから、わかりませんでしたが、飼い始めてから、犬がとっても賢い動物であることを知りました。
 特に万里はずば抜けていると思うようになりました。 

 気持ちが悪くなるほど、人間が今、なにを考えているのかをすぐにわかるのです。
「賢一、お前より万里の方がよほど頭がいいかもしれないぞ」と言って、父は笑うのでした。会社には、二十人ほどの社員がいましたが、万里は、その一人一人について、たちまち覚えてしまったのです。でも、ただ、平等に覚えたのではなく、一人一人にすべて差をつけて覚えたのです。

 万里から見て、うんとかわいがってくれる人、普通にかわいがってくれる人、無視する人、いじめる人……。 
 その相手によって尻尾の振り方が違ってきたり、吠えたりするのでした。

 万里が来てから、一ヶ月たち、二ヶ月がたって、みるみる体重も増え、動きも活発になっていきました。紀州犬は、もともと、狩猟などに使われていた犬のせいか、番犬としての役目をたちまち務めることが出来るようになりました。 
 不思議なことに、姿は見えなくても、万里は賢一家族や、深井さんや、松川さんなどには、夜遅く帰ってきて物音をたてても吠えないのです。 

 こうして、万里は賢一家族としても、また、会社の番犬としても役目を果たし、特に一人っ子の賢一にとっては、大事な兄妹であり、友達として大きな存在になっていきました。
 犬嫌いだったはずの父も、そのことを忘れたように散歩に連れて行って、近所の人に万里を自慢したりしているのでした。  

 万里が、やってきて、早くも一年数ヶ月ほどがたち、もう体格も体重も成犬と言えるように育ちました。秋田犬や、シェパードのようには大きくはないけれども、体格は立派になり、敷地内に見知らぬ人が入ってきたり、なにか不審な音がしたりすると万里は、全身の筋肉がひき締まり、顔つきも鋭く、とても頼もしい感じになるのでした。

 でも、普段はとってもやさしくやっぱり女性だなと感じるのでした。 
 ある日、父が、「賢一、万里は結婚の時期のようだね」と言いました。「えっ、犬に結婚の時期があるの」と賢一が聞くと、父は「うん、雌は発情期というのがあるんだよ。どうも、万里はその時期が来たらしいな。賢一、万里に子供を産んで欲しいかい」と言いました。

 賢一は、万里がすっかり大人になってしまったので、また子犬が欲しかったのです。
「うん、万里の子供を欲しいよ」と賢一は言いました。 
 父は、早速、万里を世話してくれた知り合いの人に結婚相手の斡旋を頼みました。

 そして、万里は結婚することになったのです……。 
 賢一は、雄犬と雌犬を掛け合わせて子供を産ませることについては、「犬の飼い方」を読んで予備知識はありましたが、でも、実際にどうするのかはよくわかりません。すべて、知り合いの人が面倒を見てくれることになりました。 

 とうとう、結婚する日がやってきました……。

 賢一は、父の運転する車に、万里と一緒に乗って、出発しました。
 万里は、車に乗るのは好きでしたが、いつもとなにか違うと思ったのか、緊張している様子で、賢一にぴったりくっついて、時々、頼りなげに賢一の顔を見上げるのでした。

「心配ないよ、万里」と頭を撫でながら賢一は万里に言いましたが、自分も万里が雄犬にいじめられないかと心配でした。
 一時間ほど走って、 着いた場所は、目黒区の住宅街にある和風のお屋敷でした。

 そのお屋敷の中に入ると、賢一は応接間に通されましたが、万里は、すぐ父とその家の主人らしき人とに連れられて行ってしまいました。
 しばらくして、万里の結婚相手の犬のものと思われる、お腹に響くような太い吠え声が庭の奥から聞こえてきました。

 万里は、おそらく、その犬のところに連れられていったのです。賢一は、姿が見えないので気が気ではありませんでしたが、我慢をしてその部屋で待っていました。
 その家の奥さんらしい人が紅茶とおいしそうなショートケーキを持ってきてくれましたが、賢一は、手をつける気にはなりませんでした。

 万里と、相手の雄犬が、顔を合わせたのか、雄犬の吠え方が急に変わり、万里の姿を見て喜んでいるような、興奮しているような鳴き声に変わっていました。
 万里が、相手の犬に咬まれたり、傷つけられたりしないだろうか……。
 賢一は心配でどうしても落ちつくことができません。
 しばらくして、父が戻ってきました。

 ――その3――

「お父さん、万里大丈夫?」と、すがるようにして、尋ねました。
「うん、大丈夫だよ。万里も、喜んでたよ」と父は平気で言いました。しかし、賢一は、万里が喜んでいた、という父の言葉に、そんなはずはないのに、と思ったのでした。
 
 その家のおじさんもやってきて、「時間がかかるかもしれませんから、ここで、テレビでも見ながら、ゆっくり待っていてください」と言って、他の部屋に行ってしまいました。
 それからしばらくして……突然、庭の奥の方から、「キャーン」という万里のらしい悲鳴のような声が聞こえて、それから、また、なんにも聞こえなくなってしまったのです。

 賢一は、その鳴き声を聞くと無意識に立上がって、窓のそばで耳をすませていましたが、その後は、もうなんの物音もしませんでした。
 しばらくして、その家のおじさんが、戻ってきて、「無事に終わりましたよ。どうぞ、来てみてください」と言って、賢一父子を小屋に案内してくれました。

 松やツツジの植えられた大きな庭の一番奥に、人の高さほどある金網で囲った場所があって、その中に犬小屋がありました。
 相手の雄犬と万里は、その金網で囲われた中で、仲良くくっつき合ったり、追いかけっこをしたりして戯れていました。

 雄犬の毛は万里の純白に対して少し灰色がかった色をしていて、体格は大人と子供ほども差があると思われるように大きくて、凛々しい感じでした。 賢一と父が姿を現すと、万里は、すぐ気がついて、雄犬から離れて、嬉しそうに近寄ってきて、これ以上激しく振れないと思われるほど尻尾を振り、身を捩るようにして喜びました。

「じゃあ、つれて帰ろう」と父が言って、万里をその囲いの中から出しました。すると、突然、相手の雄犬は怒りだし、囲いの中を走り回って、猛烈に鳴き始めました。 それは、せっかく仲良くなったのに、僕の彼女をどこに連れていくんだよお、と怒り狂っているようでした。

 そのお屋敷のおじさんにお礼を言って、外に出ようとすると、雄犬は、今度は怒りよりも、悲しみのこもったような鳴き声をあげ続けるのでした。  けれども、万里の方は案外、平気に雄犬のことは忘れてしまったような素振りで、すぐ車に乗り込みました。

 父は、車を出発させると「賢一、これで、うまくいったら、一ヶ月くらいで、子供ができたかどうかわかるんだよ」と言いました。しかし、賢一は、車が出るまぎわまで、悲しそうに鳴いていた雄犬の声が、しばらく耳から離れないのでした。

 家に帰ると母が心配して待っていました。「万里、どうだった。ちゃんと雄犬と仲良くしてきたかい?」万里はその母の言葉に応えるように、尻尾を激しく振って、帰ってきた喜びを表していました。 

 それから、一ヶ月ほどがたち、万里の様子が少しずつ変わってきました。 いつもよりもイライラして神経質になり、食欲が無くなったりしていましたが、その時期を過ぎると今度は食欲が旺盛になって、太ってきたのです。

 万里は子供ができたようでした……。 
 お腹は、日に日に大きくなり、動くのも大儀そうでした。乳房はだんだん色が赤くなり、腫れたような感じになって目立ってきました。
 工場長の松川さんや、運転手の深井さんも、万里が大きなお腹を抱えて、敷地内を歩き回っているのを見て、「いよいよ、出産が近そうだね」と言って楽しみにしているようでした。

 そして、ある日、とうとう出産する兆候が出てきました。
 賢一は、あらかじめ準備をしていたように、犬小屋の前面の金網を張った部分に筵をぶら下げて、外から中が覗けないように中を暗くしてあげました。

 そして、ついに万里の出産が始まったのです……。
「賢一、お前がそぱにいると、万里は安心して、子供を産めないかもしれないんだよ」と母の喜美恵が言いましたが、賢一は、ひそかに覚悟を決めていたのです。

「大丈夫だよ、お母さん、産まれるまで僕が、そばについててあげるんだ」と父と母に宣言したのです。
「でもね、へたに母犬のそばにいて刺激すると、産まれた子供を食べてしまうと聞いたことがあるよ」と父も言いました。

 けれども、賢一は確信を持っていました。 賢一が、お小遣いで買って、ひそかに読んでおいた「犬の飼い方」という本には、――出産する犬にとって、一番信頼できる人が近くで励ましてあげると、犬は安心して子供を産むことができる――と書いてあったのです。

 万里にとって、一番信頼できるのは、この僕だ、と賢一は思ったのです。 いよいよ、出産が始まりました……。 


 ――その4――

 賢一は、犬小屋の横についている入り口の開き戸を少し開けて、顔を覗かせました。
 万里は、それが賢一だと分かると、薄暗闇の中でもはっきり安心している様子が見て取れました。

「がんばれよ」と小さな声で、囁くように言って励ましました。
 万里は、まるでその声に答えるように少し身体を動かし、賢一を見つめました。でも、表情は苦しそうでした。
 万里は、犬小屋の中で、あっちこっちに向きを変えて寝たり、起きあがってみたりしていましたが、苦しみがだんだん大きくなるようで、賢一は心配でしょうがありません。

「がんばれ、よしよし……」とまた、励ましの言葉をかけました。
 そして、ついに万里は寝たまま背中を丸くし、お腹を大きくして力み始めました。
 そんなことを繰り返している内に、突然、万里はお腹をうねるような動きを見せ、そして小さく「キャン」と言うような声をあげました。

 その時、ついに、万里の下半身から、黒くて、濡れた塊のようなものが出てきたのです。
 賢一は思わず、「万里、大丈夫かい、がんばれ」と叫びました。けれども、万里はもう、賢一の声など耳に入らぬような様子で、下から出てきた濡れた黒っぽいものをしきりに舐め始めました。

 しばらくすると、その濡れた皮が破れて、中から、はっきり子犬と分かる小さな小さな身体が出てきたのです。

 その、まだ目をつぶったままの犬の赤ちゃんは乳房を求めて、かすかな鳴き声をあげ、はい回っていました。
 万里は、その子犬の身体をしきりに舐めました。

 賢一は、初めて見る光景に目を見張っていました。
 それからしばらくして、万里がまた、苦しそうな様子を見せ、力んでいましたが、今度は先ほどよりはスムースに、次の子が出てきました。
 
 万里は、さきほどと同じことを繰り返し、産まれてきた黒い塊の皮をペロペロなめ、そして食べてしまっているようでした。
 それから、また、三匹目が産まれ、そしてまた四匹目が産まれました……。
 賢一は、自分も不自然な姿勢をしているので、身体の節々が痛み、疲れてきましたが、我慢をして、励まし続けました。
 その後、数時間にわたって、万里は、次から次へと同じことを繰り返し、とうとう全部で八匹の子犬を出産したのです。

 万里は、一度にやせ細り、疲れ切ったような表情でしたが、自分の乳房に群がる子犬たちを絶え間なく、舐めたり鼻でつつくような素振りをしていました。
 犬小屋の中は、小さな産まれたばかりの目も見えない子犬たちが乳を求めて鳴き声をあげ、競争しながら食らいついていました。

「万里、ごくろうさん、よくやったね」と賢一は万里にやさしく声をかけ頭を撫でてあげました。
 万里は「ええ、よく頑張ったでしょ」と答えるように、穏やかな目つきで賢一を眺めるのでした。

 それから、賢一家族と、万里との〈子育て戦争〉が始まったのです……。 もちろん、賢一の家で、八匹の子犬を全部飼うなんてことはできっこありません。
 でも産まれたばかりの子犬をすぐにもらってもらうわけにはいきません。

 やはり産まれてから二ヶ月ぐらいたってからでないと母犬から離すことは無理なのです。
 つまり、これから二ヶ月間ほど、賢一の家では万里も含めて九匹の犬の世話をしなければならないのです。万里も大変です……。

 犬の乳房は全部が全部、乳がよく出るわけではありません。賢一や、母の喜美恵が犬の食事の時には、いつも見張っていないと、産まれたときから大きくて強い子犬が、乳がたくさん出るいい場所を独占してしまうのです。
 小さくて弱い犬は、いつもあまり乳の出ないところに追いやられてしまいます。

 中には、お乳を呑むことさえできない子犬もいるのです。
 賢一は、一人っ子なので、兄弟と争ったことなど一度もありません。しかし、万里の子供たちは命をかけて争っているのです。
 まだ、目が見えないのに、小さな手足を動かして乳房を求めて争いました。

「賢一、動物というのは、結局、生まれつき強いものだけが生き残っていくんだよ。弱い者は生き残れないんだ」と、父の雄一が言いました。
 賢一は、初めて目の前に、生き残りのための激しい競争を見てすっかり驚き、そして感動してしまったのです。

 賢一や母の喜美恵は、毎日毎日、食事の時には弱い子犬も平等にお乳が呑めるように一生懸命に気を配ってあげました。
 子犬がご飯を食べられるようになると母も賢一も大変でした。子犬の数だけプラスチックの丸いお皿を用意して、そのお皿に平等にご飯を入れて、ずらっと八枚並べて子犬たちを呼ぶのです。
 

――その5――

 子犬たちは成長してくると、広い空き地や畑で、それぞれに元気よく遊び回っていました。中には、縁の下の奥深くに潜って眠り込んでいるのもいました。みんな思い思いの場所で遊んだり寝たりしているので、食事の時に集めるのは大変でした。

 ある時、賢一が学校の音楽の時間に使ったプラスチック製の笛を吹いてから食事をあげるようにすると、子犬たちは、すぐにそれが食事の合図として覚えました。
 それからというもの、ピーと笛を吹くと、畑の中で遊んでいたのも、縁の下で昼寝をしていたのも、工場の建物の方まで遊びに行っていたものも、みんなが一目散に食事の場所までかけ戻ってくるのです。

 もう、その姿は転げるようで、中には焦ってひっくり返るのもいました。その姿を見かけた工場の人や、会社に用事があって来た客も、みんなが笑って見とれているのでした。
 早くご飯のところにたどり着いた子犬からガツガツとお皿までかじってしまうような勢いで食べ始めるのです。

 賢一や母の喜美恵は、子犬たちが食べているのを監督するのです。
 最初は、みんなが自分の皿のご飯を夢中になって食べているのですが、早く食べ終わった強い子犬は今度は弱くて食べるのが遅い子犬を押しのけて、ご飯を横取りするのです。
 
 賢一や母は弱い子犬が、強い子犬にとられないように、見張りをするのです。しかし、何度弱い子犬を守ってあげても、強い子犬はやっぱり横取りするのです。
 牛乳を呑ませるときもそうでした。結局、毎日毎日、それを繰り返している内に、強い犬はより強く大きく、弱いのはより弱く小さく育っていくのです。

「お母さん、どうしたらいいの」と賢一は、困り果てて父と母に相談しましたが、ある程度は守ってあげても、どうしても全部守ってあげることはできないのでした。
「賢一、弱肉強食て知ってるかい?」と父が言いました。
「動物の世界ではしょうがないことなのよ」と母も言いました。

 賢一は、自分が毎日全部見張っているわけにはいきませんでしたが、でも、できるかぎりの努力はしたのです。こうして、二ヶ月が過ぎました……。
 子犬たちは、みんな元気に育ち、身体もずいぶんと大きくなりました。
 
 ある日、父が賢一に言いました。「賢一、いよいよ、今日は万里の結婚相手の家のおじさんが、子犬をもらいに来る日だよ。覚悟は出来ているかい?」
 賢一は、もう、その時期が近いと思って悩んでいたのです。
 雌犬が、雄犬と結婚した場合、生まれた子犬の中から一番優秀な犬を一匹、雄犬の飼い主が一番先に優先的にもらう権利がある……と、「犬の飼い方」にも書いてあったし、父からも、そう言われていたのです。

 賢一は、犬が大きくなってくるにつれて、そのことが心の中に大きくひろがってきました。もし、賢一が自分の家に残したいと思っている犬が、選ばれてしまったらどうしよう、と賢一は気が気でない思いでした。
 両親は、「賢一、自分が残したいと思っている犬を二匹選んでおきなさい。そして、どちらの犬が持っていかれてもいいように覚悟を決めておきなさいね」と言い渡したのです。

 賢一は、子犬たちが、生後一ヶ月半を過ぎる頃から、自分の家に残すのは、どの犬にしようかと毎日悩みました。
 どの犬もみんな可愛い……。でも、両親から、「万里が雌だから、今度我が家に残す犬は雄にしてね」と言われていたのでした。

紀州犬母犬と赤ちゃんたち 

 賢一は、だから雄の中で強くて大きくてかわいい子犬を二匹選びました。それは、仮に〈黒〉と呼んでいる、子犬の中での一番色が黒っぽくて大きい犬でした。
 そして、もう一匹が、〈竜〉と名付けた、やはり黒と同じくらい大きくて、喧嘩も強い子犬でした。

 賢一は、その二匹の子犬に、どちらがどちらとも言えないほどに、魅力を感じていて、〈黒〉を見ていると、ああ、やっぱり、〈黒〉がいいなあ、と思い、〈竜〉を見ていると、ああ、やっぱり〈竜〉にしよう、と思うのです。
 でも、優先権を持った万里の結婚相手の飼い主のおじさんが、先にその二匹から選ぶかもしれないし、あるいは他の子犬から選ぶかもしれないのでした。

 賢一は、黒と竜の二匹のどちらでもいい、と思うようにしようと決心しましたが、しかし、どちらかというと、竜が残ってくれればいいと思うようになっていたのです。
 そして、一旦、そう思い始めると、どうしても竜を残したいという気持ちがどんどん強くなってしまったのです……。

  ついに、その日がやってきて、万里の結婚相手の飼い主のおじさんが、初めて賢一の家にやってきました。おじさんは一旦、家の中に入りましたが、すぐに出てきて、「さあ、どんな子犬たちかな」と言いながら、犬小屋にやってきました。

 賢一はおじさんが見やすいように、子犬たちを全部犬小屋に入れました。 おじさんは、おもむろに、金網越しに八匹の子犬たちを見始めました。おじさんは、そばにあった木の箱に座りこみ、時間をかけて中の子犬たちがじゃれているのを見つめていました。
 


――その6――

 そして、かなり時間がたってから賢一に向かって、「賢一君、あの黒い犬を出してくれるかい」と言いました。次におじさんは、「あの犬も出してくれるかい」と、竜を指さしたのです。

 賢一は、ああ、やっぱりおじさんから見ても、この二匹が良さそうに見えたんだ、とショックを受けながらも犬を見る目のたしかさに驚きました。
 賢一は毎日見て、世話をしてきたから分かったのに、このおじさんは、さっき来て十分か十五分間見ただけなのに、選ぶべき犬を決めたのです。

 おじさんは、竜と黒を見て、「よしよし、君たちは良い犬だ」と言いながら、二匹を交互に抱き上げたり、脚を点検したり、口の中を覗いたりしていました。

 賢一は、もうドキドキして、口もきけないほどでした。もし、おじさんが竜を選んでしまったらどうしよう、と気が気ではありませんでした。そして、ついにおじさんは意を決したように口を開きました。
 賢一は、おじさんが、決めたのだと思いました。
 
 ところが……、「賢一君が残したい犬は、この二匹のどちらかかい?」と、聞いたのです。賢一は、顔を少し引きつらせながら、「ハイッ、そうなんです」と答えました。
「やっぱりそうか……、で、どちらなの?」とおじさんは、賢一の目をしっかり見ながら言いました。

 賢一は、思いがけない言葉にびっくりしました。でも、覚悟を決めて言いました。「ハイッ、僕はできたら、こっちが欲しいんです」と竜を指さし、頭を撫でながら言いました。
 するとおじさんは言いました。「そうか、じゃあ、おじさんは、こっちの犬をもらうことにするよ」と言ったのです。
 
 賢一は思わず、そのおじさんの言葉に緊張してかたくなっていた身体から、急に力が抜けていくような感じがして、喜びが溢れてきました。
 賢一は、おじさんの思いやりのある言葉に感謝しながら、「おじさん、本当にありがとう」と、心からのお礼を言いました。

「決まりましたか」と言いながら、父も家の中から出てきました。「ええ、この犬をいただいていきますよ」とおじさんは、賢一の顔を見て笑いながら言いました。
「そうか、賢一、よかったね」と父は、賢一が最終的には竜を欲しがっているということを察していたので、言いました。
「うん、おじさんが、黒にしてくれたんだよ」と賢一は、おじさんに感謝の気持ちを込めながら言いました。こうして、まず黒が賢一の家から最初に去っていったのです。

 そして、次の日から、賢一一家は、次々と子犬たちとお別れしていきました。
 賢一の親友の田辺君と橋口君、近所の人、工場の人、と次々に子犬のもらい手がやってきて、それから十日間ほどの間に、とうとう、子犬は竜だけになってしまったのです。
 それは、最初から分かっていたことでしたが、賢一も、毎日食事の世話をしてきた母も寂しい気持ちで一杯でした。

 でも一番悲しい想いをしたのは、当然、母親の万里でした……。
 万里は、一匹去るごとに、――どうして、どうして私の子供をもっていってしまうの――と、いう表情で悲しげに見送るのでした。

 賢一は、そんな万里がかわいそうでたまりませんでした。ですから今まで以上に、万里のそばに行って慰め続けたのです。竜も寂しそうでした……。竜と黒は兄弟げんかの一番ライバルでしたし、またそれでいて一番よく遊んで仲も良かったからです。
 今まで兄弟姉妹と走り回り、じゃれ合って遊んでいたのに、遊び相手はとうとうお母さんしかいなくなってしまったのです。
  
 ある日のこと……。
 賢一は母の喜美恵と昼ご飯を食べていました。工場も昼の休憩で、機械は止まっていて静かな一時でした。 
 突然――そんな静けさを切り裂くように犬の悲鳴が響き渡ったのです。

 賢一は、その悲鳴が耳に入った瞬間「万里だ!」と叫ぶと、あわてて外に飛び出しました。母の喜美恵もすぐその後を追いました。賢一がサンダルを履くのももどかしく、玄関の外に出て、そこに見たものは……。

オート三輪車

 八百屋のおじさんが運転するオート三輪の前輪の下敷きになって、もがき苦しみながら必死に前足を踏ん張って這い出そうとしている万里の姿でした。工場の人たちも、みんななに事かとかけだしてきました。

 賢一は「早く、車をどけてえ」と泣き叫び車を押しました。
 母も、「おじさん、なにしてるの早くどけて」と、賢一とともに車を押しながら叫びました。しかし、車の中のおじさんはあわてているのか、なかなか、車をバックさせられません。
 

――その7――

 会社の運転手の深井さんや、工場長の松川さんも飛び出してきました。車はやっとバックして、万里の下半身に乗り上げていたタイヤが動き、万里から離れました。

「万里、大丈夫かあ……」
 賢一は泣きながら、倒れたままの万里にかけ寄りました。竜も、どこからか走ってきて、心配そうに見ていました。
 母も、深井さんも松川さんも、そして運転手の八百屋のおじさんも、みんなが万里を取り囲みました。

「すみません、すみません、犬がいるなんて気がつかなかった」と八百屋のおじさんは、頭を何回も下げて、賢一や母の喜美恵にあやまりました。
 万里は、のどかな天気なので、玄関前で昼寝をしていたのです。

 普通、自動車は玄関前までは入って来ないのですが、会社の食堂への配達を終えて帰るときに、八百屋のおじさんが、バックするところを間違えて前進してしまったのです。

 万里は、クッー、クッーと鳴きながら起きあがろうとしましたが、できません。上半身は起きあがろうとするのだけれど、横向きに地面にぴったりと押しつけられたような下半身は、うしろの両足がくっついたようになったまま起きあがることができないのでした。

「賢ちゃん、獣医さんにつれていこう」と運転手の深井さんは言いました。「そうだ、そうした方がいいよ。毛布で包んで行こう」と松川さんも叫びました。
「うしろ足が変になってるよ。くっついてしまったみたいだよ」と賢一は母に言いました。

 たしかに、万里の身体からは血は出ていないのだけれど、うしろの両足が〈くの字〉に曲がった状態で、接着剤でくっつけてしまって一本になったようになっているのでした。

 深井さんは、駐車スペースに停めてあった会社のワゴン車を出してきて、「さあ、急いで獣医さんに運びましょう」と言いました。
 母の喜美恵が毛布を持ってきたので、みんなで万里の身体を毛布の上に乗せようとしましたが、万里はうしろ足が痛むのか、悲しそうに鳴くのでした。

「万里、我慢しろよ」と賢一は万里の頭を撫でて励ましました。万里もその気持ちが分かるのか、じっと我慢をしている様子でした。やっとの思いで、万里の下に毛布を入れると、みんなでそっと持ち上げて、ワゴン車のうしろの座席に乗せました。

「じゃあ、行きましょう。奥さんも一緒に行ってください」と深井さんは言いました。
 結局、深井さんと松川さんと賢一と母の喜美恵の四人が車に乗りこみました。松川さんは、車の中から外にいる工場の若い人に、「社長が帰られたら、ちょっと仕事離れるからと言っておいてくれ」と叫ぶと、「さあ、深井君行こう」と言いました。

 車で五分ほどのところにある、笹井医院は幸い開いていました。
「さあ、万里、お医者さんについたから、もう心配いらないよ」と賢一は、万里の頭を撫でながら言いました。

 万里は、一番大好きで世話もしてくれる賢一が、必死になって頭を撫でて励ましてくれているのが、よく分かるのか、じっと痛みに堪えているようでした。
 みんなで、万里を医院に運び入れました……。
 笹井獣医師は、聴診器を使ったり、手で、そっとうしろ足を触って、足を開こうとしたりしました。

 万里は、脚を触れられると、痛むのか、小さく鳴き声をあげました。
 賢一は、まるで自分の足が痛んでいるように顔をしかめながら必死の面もちで眺めていました。

 その後、レントゲン検査も受けました。診察と検査が終わった後、笹井獣医師は、「坊やの犬かい?」と聞きました。
「うん、僕の犬だよ」と賢一は答えました。笹井獣医師は、ちょっと迷ったような素振りをしましたが、隣に居た母の喜美恵に向かって「坊やのお母さん?」と聞き、母の喜美恵が頷くと、「ちょっと、お母さんだけ来ていただけますか」と言って、別室に母と入っていきました。

 十分ほどして、母だけが出てきました。母の目には涙が出ていました。賢一は驚いて、「お母さん、どうしたの?」と不安にかられて聞きました。
 母の喜美恵は、賢一と、そして心配そうにそばに寄ってきた深井さんと松川さんにも、説明するように、話し出しました。
「賢一、万里はもう生きて行けないんだって……」と言うと、また新たに涙を流しました。
「えーっ、万里は死んじゃうの?」と賢一は悲痛な声で母に聞きました。
「奥さん、万里はもう駄目なんですか?」と深井さんと松川さんも、聞きました。
「このままでは生きていけないし、苦しむだけだから安楽死させてください、今すぐでもいいし、決心がついたら連れてきてください、て言われたのよ」と母は言いました。
「お母さん、安楽死ってなんのこと?」
 母の喜美恵は、松川さんと深井さんと顔を見合わせて、迷っていましたが、「あのね、動物が病気とか怪我をして、もう助からないときは、苦しまないようにお医者さんが死なせてあげることなのよ」と言いました。
 

――その8――

「えっ、じゃあ、万里を死なせてしまうということなの? イヤだー、そんなの。そんなの絶対にイヤだよお」と、賢一は泣き叫びました。
 母の喜美恵も深井さんも松川さんも、そんな賢一の姿を見て、みんな困り果てていました。

「奥さん、もう一軒の獣医さんに行ってみましょう」と、松川さんが言いました。
 たしかに、このままでは賢一が、承知するはずはありませんでした。
「そうだ、もう一軒の獣医さんに診てもらいましょう。もう一軒知ってますよ」と、深井さんも、あきらめきれないといった様子でそう言いました。

「じゃあ、賢ちゃん、さあ、車に乗って」と、松川さんにせかされて、賢一もみんなもまた車に乗り込みました。
 十分ほど走って、隣町の獣医さんに着くと、早速、診察を受けたのでした。
 
 しかし……その結果は先ほどの獣医さんと同じことが宣告されたのです。「イヤだ、万里を死なせるなんて、イヤだよお」と、賢一はまた泣き出しました。

 母も松川さんも、深井さんも、みんなが困り果てて、賢一が泣くのを眺めていました。 しばらくして、松川さんが口を開きました。 
「賢ちゃん、じゃあ、もう一軒だけ獣医さんに行ってみようよ。でも、そこでも同じだったら、あきらめるしかないんだよ」と、松川さんは言いました。

 みんなも、そうだ、そうしよう、と頷きました。
 そして、三軒目の獣医さんを探して辿り着いたのでした。みんなの前に姿を現したのは、頭が真っ白で、腰も少し曲がったおじいさんの獣医さんでした。

 獣医さんは万里を見ながら「おやおや、かわいそうにねえ、そんなことを言われたのかい」と、やさしく万里の頭を撫でながら、言いました。
 そして、ひと通り診察と検査が終わると、みんなの方を見ながら、「大丈夫だと思いますよ。安楽死なんて、させる必要はないと思います。坊や、安心しなさい」と、言ったのです。

「えっー、先生本当に?」と、賢一は叫びました。
「先生、本当に安楽死させなくていいんですか? 二軒の獣医さんで、そう言われてきたものですから」と、みんなは顔を輝かせながら、先生を取り囲んで言いました。

「ええ、大丈夫ですよ。間違いありません。実は以前、同じような事故に遭った犬を診察したことがあるんですよ」と言うと、今度は賢一の方に向かって、「坊や、死なせなくてもよいけれども、足はもう治らないと思う。でもね、坊やがちゃんと万里ちゃんの面倒を見てあげたら、立派に生きていけると思うよ」とやさしく言いました。

 賢一は、先生の言葉に、先ほどまでは悲しくて涙が出たのに、今は、身体の中から喜びが溢れてきて、涙が拭いても拭いても出てくるのでした。
「先生、ありがとう」賢一は、先生にもっと感謝の気持ちを表したかったけれども、それ以上は、こみ上げてくる涙と喜びでなんにも言えませんでした。

「いいんだよ坊や、これからね、万里ちゃんの面倒を見てあげるのは大変だよ。がんばって世話してあげなさいね」と、先生は賢一の頭を大きな手で撫でながら言いました。
「先生、大丈夫です。僕は犬が大好きですから」と、賢一は元気いっぱいに答えました。

 その夜、父の雄一を交えて夕食を食べながら、賢一は両親に約束したのでした。
「まあ、賢一は今までも、犬の世話をちゃんとやってきたから大丈夫だろう。でも、今度の世話は大変みたいだからがんばりなさい」と、父は言ってくれたのです。

 夕食後、万里を轢いてしまった八百屋のおじさんが、息子の義男さんと菓子折を持ってあやまりにきました。
「すみません、親父がとんでもないことして……、賢ちゃん、本当にごめん、許しておくれ」と、おじさんと二人で、頭を深々と下げてあやまるのでした。

 万里は〈三本足の犬〉になってしまったのでした……。
 うしろの二本の足は、ほとんど一本の足になったようでした。問題は、その状態で自分で立上がって歩けるかどうか、ということ。
 
 それから、排便とか排尿が自分でできるのかどうか、ということが一番の問題でした。
 とにかく、そうなってしまっても毎日食べるのですから、当然、排便と排尿はしなければなりません。
 
 食べることはなんとかなっても、そっちのほうはできるのだろうか……。
 翌朝、賢一はすぐに万里の様子を見に行きました。幸い、万里の足は痛んではいないようでした。
 万里は、賢一が来るのを待っていたように、犬小屋の中で、立上がる努力を始めたのでした。

「万里、大丈夫かい?」賢一は、思わず、犬小屋の中に少し身体を入れ込んで、万里の動きを助けようとしました。
 万里は、立上がろうとしたものの、足が痛むのか、また、横になってしまいました。しばらくして、また、立ち上がりかけました。
 

――その9――

「よし、万里、がんばれ」と、万里の身体に軽く手を添えながら、賢一は励ましました。
 万里は、やはり痛むのか苦しそうな様子を見せたけれど、立上がる努力をつづけるのでした。

 なん度か、くり返した後、万里はとうとう、〈三本脚〉で立上がることができました。
「よしっ、いいぞ」と賢一は叫び、万里の首輪にやさしく手を添えながら、万里を外に引っ張り出そうとしました。万里は立上がって、足に重みがかかって痛むのか苦しそうな表情を見せましたが、とうとう犬小屋の外に出てきて、三本脚で立つことができたのでした。

「よし、いいぞ、いいぞ、さあ今度は歩いてごらん」と首輪をつかまえながら、自分の方にそっとひっぱりました。
 万里は自分が立上がって、そして歩かなければ生きていくことができないんだ、ということがわかっているように真剣に歩き出そうとするのでした。

 賢一は万里の前に回ると、手を差し伸べて、「さあ、ここまで歩いてごらん」と言って促しました。
 万里は、なかなか動き出せなかったけれど、賢一が、「さあ、万里、動いて」と少し強く手招くと、ついに前足を出すと同時に、うしろのくっついたままの足を軽く飛ぶようにして動かしたのでした。

「やったあ、万里、偉いぞ」と、賢一は思わず叫びました。
「お母さん、来てえ、万里が歩いたよお」と、家の中の母親に向かって叫びました。
 母の喜美恵も、エプロンで手を拭きながら飛び出してきました。 

「どうしたの?」と、お母さんは聞きました。
「お母さん、万里が少し歩けたんだよ」と、賢一は母に向かって興奮しながら言いました。

「よかったねえ、万里、もっと歩いてみて」と母も万里を見ながら言いました。
「よし、もっと歩いて見せてよ」と賢一は、また万里の前方に回って、しゃがむと手招きをしました。
 万里は、その声援に応えるように、今度は先ほどよりは簡単に、また一歩を踏み出しました。

 そしてその後は、ピョンピョンと跳ぶようにしながら、自分で畑の方に向かって歩き出しました。
 畑の横の決められた場所に来ると万里は、少し腰を落としておしっこを始めました。

 その姿勢は苦しそうでしたが、万里はずっと我慢していたのか、長い時間、出し続けるのでした。ちょっと離れたところから、賢一は、それを見て、よかった……と思いました。
 一番、心配だったのは、歩けるかどうかということと、おしっこと、ウンチができるかと言うことでした。

 この調子なら、ウンチもできるだろうと確信をもったのです。そして、その通り、しばらくして万里はウンチもできたのです。

 ある日のこと……。
 賢一は、家の中で母とお茶を飲んでいましたが、縁側の窓から、ふと外を見て、思わず目をみはりました。

「お母さん、見て!」と、賢一は外を指さしながら、母に向かって叫びました。
 なんと……、万里が逆立ちをして歩いているのです。
 賢一は、縁側からサンダルを突っかけると外に飛び出ました。母も縁側まで、出てきました。

 万里は、二人には気づかず、畑の中を下半身を真上にあげて、つまり逆立ちスタイルで、前足だけで歩いているのです。
「万里……」と思わず賢一が呼びかけると、万里は立ち止まり、ゆっくりと真上にあげた足を下におろして、三本脚になりました。
 
 そして、またゆっくりとうしろ足をあげて逆立ちスタイルになり、犬のトイレに向かったのです。
 万里は、三本脚だけで歩き続けると、やはり痛むので、時々、逆立ち歩きをする、ということを覚えたようでした。

 会社から戻った父に、賢一は早速、万里の逆立ち歩きの話しを報告しました。 すると父は「賢一、驚いたろうなあ。これからも、ちゃんと面倒みてやれよ」と言いました。賢一は力強く父の言葉にうなづきました。